出版労連が発行する『教科書レポート』No.67に「奈良教育大学附属小学校での教員異動・教育課程と教科書使用義務」という記事が掲載されています。
この記事は、「教育研究者と教科書編集者の対話」というかたちで、奈教大附小問題について論評されていますので、要約して抜粋させていただきます。
まず、今事案の経過を解説した後、「教科書の運用のあり方についての原理・原則に立ち返る必要がある」として、以下のように述べています。
「旭川学力テスト訴訟」判決、「伝習館訴訟」、「七生養護訴訟」の判決、ILO/ユネスコの『教員の地位に関する勧告』からは、「教科書が『主たる教材』と規定されているとしても、使用義務は肯定されず、教科書の教え方や補助教材との使用上の比重等は、教員の教育方法の自由に委ねられるとするのが通説」とするのが通説で教育条理となっている。
文科省は、2000年代に入って「はどめ規定」を撤廃し、発展学習の可能性を肯定するようになり、授業数に関しても、絶対的なものではない( ありえない) のが現実的な解釈となっている。
教科書検定においても、QRコンテンツのような補助教材については、「使用義務」も、もう行政は実質的には手放しているというのが現実的。
つまり、教科書・教材ともに拡張性が高まった結果、その内容すべてを検定で一元的に管理するには限界が生じている。
ある程度弾力的な余地を奪ってしまえば、教育条理に反するばかりでなく、現実(教育現場)から乖離したような授業(教科書・教育行政)になってしまう。そのことは、おそらく文科省も認めている。
附小のおいて、図工の教科書を使っていないことが、直ちに違法で不適切ということにはならない。むしろ、教科書を乗り超えた授業展開ができ、将来の学習指導要領を導引するとか、教科書以上に発展的で効果のある学習活動ができたことを広く展開して、いわば「開かれた教育課程」として普通学校の授業・カリキュラムを再考する素材とする仕事が、附属小では可能なのだという議論になるべき。
長年パイロットケースの役割を果たしてきた附属学校は、慣習的に実験学校としての模索が認められてきたと言える。
今回の案件は、総入れ替えの意図を明示した人事異動の示唆をして、附属学校のみならず一般の学校に対しても萎縮効果を与える問題のあるもの。
現実は、学校現場の多忙で教育実践の自主的な模索が困難になっているなか、今回の事例は古典的な規律訓練型の管理統制であって、時代の動きとは相いれない。