子安潤先生( 愛知教育大名誉教授 )の新刊『貧困化する授業からの反転ーデジタル化と「子ども主体」の偽装を真正の教育へ』(学文社)の「あとがき」に、奈良教育大学附属小学校の問題が触れられていますので、部分的に要約して紹介させていただきます。
「授業の画一化と貧困化」が進められている例の事案として、「奈良教育大学附属小学校の教育課程と授業が学習指導要領と教科書に沿っていないと問題視された事例」を揚げ、次のように紹介しています。
大学の「是正」と称する方針が教育を画一化し、貧困な教育を作り出してしまうのは、その論拠と理由づけに教科書の絶対視ないし教科書使用義務を巡る誤認があり、教育を画一化させる論理と力が見える。
学習指導要領は、「大綱的基準」であり、一言一句が拘束力を持つものではないことが確認されている(旭川学力テスト最高裁判決)。
むしろ、学習指導要領は、「学校の教育課程は学校が編制する」としている。
教科書使用義務を、教科書通りの実施とみるのは狭量な見方でそこに誤認がある。
「著しく逸脱」しない限り、教科書の不使用と断定することはできない(伝習館事件判決)。
「著しく逸脱」とは、①教科書の内容構成とは全く無関係に、②一方的な内容を教え込むことが、③恒常的に続いた場合であり、附小の事例には当てはまらない。
まして、教科書会社が参考までにつくった単元の授業時数プラン通りでないことを「不適切」とするのは、思考停止であり、授業を画一化させる。
教科書を使用する主体は、子どもではなく教師である。例えば、子どもが教科書を忘れてきても学校教育法34条違反にはならない。
教師が「教科書を使用する」形態は、必ずしも授業場面で教科書を使って教えることだけではない。
授業の準備段階で教科書を使用する、分析の対象として使用するなども「使用」にあたる。分析の結果、教科書以外の教材を使用することも当然ありうる。むしろ、教科書の代替となる教材に関する知識を豊富に持つ教師の方が、授業の授業の基礎力量が高い。
附小の教育課程が、地域の公立校と異なっている点を不適切とするのは、地方教育行政と個別学校との関係が作用して、授業画一化の力が動いていたため。「学校が編制する」とされている教育課程が、足並みをそろえることで権力に従っていることを示している。
決まっていないことを決めたからといって悪いことは何もない。「学習指導要領」「教科書」「教師用指導書」それぞれの効力の範囲を正確に掴まないと、国や県の教育行政によって何でも決まっているかのような錯覚に陥り、本来規定されていない事柄まで「国の方針」だからと過剰に反応してしまうことが、授業を画一化させる異常な要因構造である。