3月11日、Yahoo!JAPANニュースにおいて、ジャーナリスト前屋毅さんが「多くの教育研究者が問題視している、「奈良教育大学が附属小に対してやった『とんでもない』ことと『攻撃』」という記事を書いておられます。
片岡洋子先生(千葉大学名誉教授)にインタビューされた記事です。
3月4日付けで発表された教育研究者有志の声明「教育課程の創造的実践を通じたゆたかな教育の実現を求めます」に賛同した教育研究者は368名に達して広がっているそうです。
ぜひ、お読みください。
最後のほうを一部抜粋して紹介させていただきます。
|「攻撃」でしかない
―― 「攻撃」というのは?
片岡 私は生活綴方(作文)教育の研究をしてきましたので、1970年代半ばに岐阜県の恵那地域の生活綴方教育が低学力につながるなどの攻撃をうけたことと重なってしまって、攻撃と言ってしまいました。自分の生活をみつめながら、生きることや学ぶことについて文章に表現し、考え合うのが生活綴方教育です。それをやっていると授業時間数が足りなくなるのではないか、まちがった教育だ、と議会などから攻撃されました。
奈良教育大学側が一方的に「附属小のやっていることは間違っている」としか言っていないようにおもえたので、50年前の恵那の教育攻撃と重ねてしまいました。その当時、攻撃された先生は高齢になっていますが、奈良教育大学附属小のことを話したら、「昔と変わらないことをくり返している」とあきれていました。奈良教育大学附属小でも日記や作文で表現する教育を大事にしてきましたので、そうした教育への攻撃という点で共通しているのではないかとおもってしまったのです。
―― 「声明」は、タイトルにも「創造的実践」という言葉が使われています。いま、創造的実践が必要とされているということでしょうか。
片岡 教育が現状のままでいいとは、文科省も考えていないはずです。かなり前から文科省も、「個性に応じた」とか「個別最適化」、「協同の学び」など、いろいろ方向を示してきてはいます。それを実際につくっていくのが、創造的実践です。しかし、学校現場では思うように方向転換できていません。
なぜ方向転換できていないのか、それを真剣に考えなければいけないときでもあります。日本の学校教育の大きな課題なのです。
―― なぜ、方向転換できないのでしょうか?
片岡 いろいろありますけど、ひとつには「教科書依存的な授業」だと、私はおもっています。方向転換するには、子どもたちと接している教師たちが、子どもたちの現状にあわせて自主教材をつくるとかの自由度が必要です。
それができないのは、「大綱的基準」であるはずの学習指導要領が「解説」という分厚い文書になり、それが教科書に反映され、その教科書の「指導書」にそった授業をせざるを得ないからです。。教科書どおりに教えなければならない、あるいは教科書どおりに教えていればまちがいがないかのような状況が、創造的実践を阻んでしまいます。
学習指導要領は根本的なところを大づかみに示すような、もっと「大綱的」なものになったほうがいいし、先生や学校がもっと子どもたちの現状にあわせた授業づくりをできるようにすべきです。
そういう動きを阻むようなことはしないでください、というのが私たちの「声明」です。子どもたちの現状にあわせた創造的実践を抑えようとしているだけでも、今回の奈良教育大学の報告書はおかしい、とおもいます。
|創造的実践を奈良教育大学は否定するのか?
―― 奈良教育大学附属小は、まさに、そういう創造的実践としての授業づくりをやっていたわけですね。
片岡 そうです。これからの学校教育を考えるうえでも、附属小が創造的実践に取り組むことは必要で、役割でもあります。教科書よりもっとよい教材をつかった授業とか、単元の履修時期の順番を変えるとか、そういう工夫をするのは公立の学校でも当たり前にできるようになっていく必要があります。そういう授業でなければ、子どもたちの成長を支えていくことはできません。
にもかかわらず奈良教育大学の報告書は、履修の時間数が足りないとか、教科書のここを飛ばしているとかの指摘に終始しています。いま必要とされているところに目が向いていません。時代に逆行しているとしかおもえません。
―― 教育は誰のものだと考えているのか、疑問におもってしまいます。教育は誰のものか、片岡さんはどのように考えていますか。
片岡 1989年11月に国連総会で採択され、日本が1994年に批准した「子どもの権利条約」の基本的な条文が、ようやく「こども基本法」や「生徒指導要領」にも引用されるようになりました。教育を受けるのは子どもたちの義務ではなく権利だということが、共通認識となる時代になってきています。
義務教育という言葉から、いまでも、教育をうけるのは子どもの「義務」だと誤解している人が少なくありませんが、教育を受けさせる義務を負っているのは、おとなであって、子どもにとっては「権利」なんです。教育は子どもたちのものです。でも、子どもたちが生きいきと学べるような教育でなかったら、子どもたちは拒否したり逃げたりしてしまいます。
だからこそ、繰り返しになりますが、教え込むのではなく、子どもが主体的に学ぶことができる創造的実践が必要なのです。
奈良教育大学の報告書は、大人が何を教えたかが重要だという非常に単純な図式を前提にしています。だから、「教えていなかったからダメ」という話になるわけです。
そこには、「子どもたちはどのように何を学んでいたか」の視点が欠けていると思うのです。いま必要とされているのは、子どもたちの学びをつくりだす教育です。奈良教育大学の報告書が、そうした教育をつくることを萎縮させるのではないかと心配です。そうならないようこの問題について教育研究者とこれからも話し合っていきます。