奈良教育大学附属小学校(以下「附小」)の教育課程について、報道では「不適切」「法令違反」という文言が散見されますが、そうした言葉だけが一人歩きして、どのような点がどのような意味でそうなのか、よくわからない部分があります。学習指導要領の拘束力については、その範囲や程度についてさまざまな議論があります。教科書使用義務についても同様です。教育実践というものが、子ども一人ひとりの発達に即して、生きたコミュニケーションとして行われるべきものであるところ、「不適切」「法令違反」という表現の一人歩きが、学校現場を委縮させることにならないか憂慮しています。 附小のHPで公開されている「奈良教育大学附属小学校における教育課程の実施等の事案に係る報告書」については、いくつかの点について専門研究者から疑問が提出されているようです。
わたしとしては、年間35時間の実施が標準とされている「特別の教科 道徳(道徳科)」について、32~33時間の不足とされている点が気になります。
報告書では「「道徳」的な指導が「全校集会」で行われていたが、これは「特別の教科である道徳」としての実施とは言えないため」(8ページ)、「「道徳」については、これまで道徳の授業として認められるものは一部しか実施されていなかった(1・2年:2時間、3~6年:3時間)が、全校集会の中で、道徳の内容項目と関連させた授業は行っていた」(17ページ)とあります。
「指導はしていたが、認められない」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。
報告書のごく限られた記述から推測するしかありませんが、教室での学級単位の授業ではなく「全校集会」という形式だったために不可とされたということのように読めます。
しかし他方で、道徳科の授業実践としては、「全校道徳」「縦割り道徳」「異学年道徳」といった、学年や学級を超えて行う形式がとられることもあります。しかもそれらは少数の逸脱的(法令違反?)な例ではなく、むしろ先進的な実践事例として、有名な教育雑誌や教育委員会のウェブサイト等でも紹介されているものです(ぜひ「全校道徳」でネット検索してみてください)。
学級は同年齢集団で構成され、日常の学校生活を共有していることから、そこで行われる道徳科授業では相対的に子どもたちの発言が同質的になりがちです。そして「全校道徳」「縦割り道徳」「異学年道徳」では、発達段階や生活経験を異にする子どもたちが、一つの主題について「考え、議論する」ことに、大きなメリットがあるといわれています。そもそもわたしたちが日常において、何かについて道徳的判断を行う場合、それは集団的に行われる場合が多く、そしてその集団は同年齢とは限りません。むしろ異年齢の人々が集団的に考え、議論し、判断を下すという方が、より真正(オーセンティック)な道徳判断といえるわけですが、「全校道徳」「縦割り道徳」「異学年道徳」などの授業実践は、そうした「真正な学び」へのチャレンジとして高く評価されます。
このような学問的・実践的見地から見た場合、報告書における「指導不足」「時数不足」という判断は、失礼ながら、先進的な道徳教育実践の広がりを踏まえないまま、学級を前提とした旧来的な道徳科授業のイメージをもって、附小の実践を評価しているのではないかという疑念をぬぐえません。
また、附小は「ユネスコスクール」であり、ESD(Education for Sustainable Development)の先進校として、人権、民主主義、異文化理解、環境教育などの取り組みが行われてきたことで有名です。これらの内容は、道徳科の内容項目の領域C(主として集団や社会との関わりに関すること)や、D(主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること)に配置された内容項目と大きく重なっています。こうした取り組みを行ってきた附小の教育課程において、年間標準35時間のうち32~33時間しか道徳科が実施されていなかったというのは不可解です。
ちなみに、附小の「ユネスコスクール」としての取り組みである「言語文化」は「外国語活動」として認められなかったとのことですが、同科目についての報告等を参照する限り、内容的には道徳科の範疇に入るようにも思われます。わたしからみると、むしろ、道徳科を媒介にしたカリキュラムマネジメントの一例として十分に位置づけられるようにも思うのですが、どうなのでしょうか。 以上はあくまで、インターネット上に公開されている限られた情報をもとにした、外部の研究者の考察です。実態に照らした事実関係の認識の誤りなどはあるのかもしれません。そのことも含みつつ、しかし、繰り返しになりますが、本件は「法令違反」「不適切」という強い表現が一人歩きしている印象があり、このことが日本全国の学校現場に委縮効果をもたらす可能性があります。優れた教育実践の可能性の芽をつむことのないよう、慎重な議論が必要であるということを強く主張したいと思います。
「報告書」のなかの「「道徳」的な指導が「全校集会」で行われていたが、これは「特別の教科である道徳」としての実施とは言えないため」という記述に、子どもたちを思う良心を感じます。
そして、それを受けての神代さんの、「公開された情報にもとづく外部の研究者の考察であり」「教育実践というものが、子ども一人ひとりの発達に即して、生きたコミュニケーションとして行われるべきもの」「全国の学校現場に委縮効果をもたらし、優れた教育実践の可能性の芽をつむことのないよう」とのお話にも、同じように子どもたちを思う良心を感じます。
こうした協調を大事に受けとめたいと思いました。 (山室 光生)