学習指導要領の内容通りに教育課程を編成していなかった教員たちが、「犯罪者」のように扱われ報道されていることに心が痛む。
なるほど、教育課程は確かに文科省により学校教育法施行規則に定められている。
しかし、その細部にわたって「法的拘束力が認められるか」については、これまで行政上、司法上で争われてきた歴史がある。
まして、刑事法により禁止された処罰される不法行為である「犯罪」には当たらないであろう。
そもそも、教職(=教師という仕事)は、自身の「教育的見地」に基づき、裁量性と専門性を行使して自律的に働く専門職(profession)ではないのか。また、教師は専門家であろうとしなくてよいのだろうか。
ILO・ユネスコ(1966)は「教員の地位に関する勧告」で「教職は、専門職とみなされるべきである( Teaching should be regarded as a profession.)」と勧告した。
中教審(2012)は「教員を高度専門職業人として明確に位置付ける」としている。
しかし、医師や弁護士のように専門職と認知される要件は、①高度で体系的な専門知識・技能の必要性とともに、②職務の自律性、③職業集団メンバーとしての職業規範や倫理観の高さであるとされる。
日本の教員は大学教職課程で取得する教員免許を必要とし、①の要件は一応満たすというものの、②や③の要件が十分に満たされているとは到底言い難い。
特に、文科省は、教員の自律性、裁量性発揮にはとても統制的だ。
欧米の先進国では、教育課程の編成や教科書の検定、教員養成課程や(専門性の)育成指標、研修の内容などの策定に関し、教員組合や教育団体、学会などの代表者を加えて検討することが当たり前のように行われている。
日本では審議会などに教員や研究者を個人的に参加させてはいるが、団体としては一切触らせず、文科省が全てを決定する姿勢を貫いている。
組織の一員として上位機関の指示通り動く献身的な「公僕(public servant)としての教師」像や、学習指導要領の内容を漏れなく子どもに注ぎ込むパイプのような「技術的熟達者(technical expert)としての教師」像を求めてきたと言えるのではないか。
また、世取山(2008)が指摘するように、新自由主義的な政策の下で、教員自ら「主人(principal)」の意向に沿って働く「代理人(agent)としての教師像」を求めているのではないか。
そのため、教育研究者からは「教師は、専門職労働者(professional worker)」(市川1969)、「教職は、準・専門職」(竹内1972)などと位置付けられることが多かった。
しかし、本当にこのままで良いのか?
医師や弁護士などの職が専門職として認知されているのは、長い歴史の中で同業集団がその地位を高めるためにさまざまな努力を重ねてきた結果である。
世界では、教職を専門職とするために、修士課程での養成の推進や、専門性指標作成、教員団体による倫理綱領作成などの努力が重ねられている。
また、子どもの成長発達を促す教師自身が専門家たらんとせずに、創造的自律的に教育活動を行うことを諦め、ただお上が決めた教育課程をパイプのように注ぎ込むことだけに専念するならば、教職のよろこびや働きがいは感じられず、保護者からの敎育権の付託に応えることはできないであろう。
今回の「事件」について、ただ「施行規則違反」の是非だけではなく、そもそもの教職のあり方、敎育のあり方を、みんなで議論するべきではないかと考える。
ILO・ユネスコ(1966)「教員の地位に関する勧告」。
市川昭午(1969)『専門職としての教師』明治図書。
竹内洋(1972)「準・専門職業としての教師」『ソシオロジ』第17巻第3号、社会学研究会。
中央教育審議会(2012)「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(答申)」。
世取山洋介(2008)「新自由主義教育政策を基礎づける理論の展開とその全体像」『新自由主義教育改革―その理論・実態と対抗軸』大月書店。