この問題は現場の人間関係の不味さを教育課程の不備に置き換えたものである。
日常的なコミュニケーションで関係修復すれば済む問題。それができなかったことを職員体制の確執化にすりかえ、さも職員が暴走しているかの如く校長は主張している。
もし、苦情が出たのが事実ならその時点で担当者に指導すればすむこと。職員会議が最高議決機関で指導できないとは既に10年以上前に解決済みの問題である。
校長はできるだけ現場の意思を尊重しつつ、時には議決について意見を延べ包括的に無理のないように学校運営をする。コミュニケーションができておれば議案は事前に校長の元に入り調整を先に行う。そうすればモメることなど全くない。人間関係ができておれば円滑に解決できる話を何をしているのかと呆れている。
また、この校長は教科書を教えることが教育とはき違えている。教科書の履修事項を自主プリントで教えることは教員の独自性の中で認められても良い点であり、道徳のあり方や書道、君が代斉唱についても、胸を張って本校では校長の指示のもと全てこのやり方でやってきた。教職員は子どもたちのために頑張っているとなぜ文部科学省の指導に責任をかぶらないのか。全て学習指導要領のまま実施せよと言うのであればAIにでも任せたら良い。生きた先生が教えることでどれほど子どもたちは生き生きするか。しなやかな教育的効果は生身の人間の手の教育でこそ生まれるものではないのだろうか。
もとより、それができる校長であれば今回のような問題は起きておらず奈良教附小は
明るくよい小学校であったと思う。奈良教附小の先生と教育を支持する保護者、関係者の皆さんが気の毒でならない。
ありがとうございます。
モヤモヤしていたものを的確におっしゃっていただいた心持ちです。