2003年、東京では産経新聞のキャンペーンに端を発して、養護学校で積み重ねられ、保護者からも信賴を得てきた「性教育」が、数人の都議と東京都教育委員会によって弾圧されました。都教委は同時期、卒業式などの式典に際して「国旗掲揚国歌斉唱」の徹底を求めて、都立学校全校長に対し、教職員一人ひとりへの「職務命令」の発出などを命じています。
参列者同士が向かい合うフロア形式を否定し、上下関係を意識させるステージの使用、その正面への「日の丸」掲揚、これに起立・正対しての「君が代」の斉唱など、式内容も画一的に定められました(音楽教員によるピアノ伴奏も命じられています)。1999年の国旗国歌法制定後、「立つ立たない」「歌う歌わない」は自分で考えてと説明してきた学校もありましたが、この「内心の自由」の説明も禁じられました。
生徒や保護者にとって人生の節目である晴れがましい場面の冒頭に、仰ぎ見るようにして国家を意識させる演出が強引に持ち込まれたのです(*これに先立って、戦後ずっと「日の丸」も「君が代」もなかった都内の国立市では、数年前から攻撃が始まっていました)。
年に何回かの式典場面で「日の丸・君が代」の強制が徹底されたというだけではありません。「性教育」への攻撃もそうですが、教育委員会による教育内容・教育課程への介入は、学校運営全体に及びます。
生徒や保護者の皆さんと直接向き合っている教職員が、対等な立場で話し合い、合意を形成する場である「職員会議」が、管理職による一方的な情報伝達の場に化していきます。校長は教職員の代表者としての側面を否定され、教育委員会による学校支配の代理人に貶められていきます。相前後して導入された人事考課制度は、協力し合ってきた教職員の仕事を個人個人の業績に切り分けて、管理職と教育委員会とが評価を下すものです。教員を階層化する主幹教諭や主任教諭などの導入ともあいまって、教職員の横のつながりが弱められ、学校は上意下達・上命下服の息苦しい場となっていきました。
もちろん、国立大附属小学校は都立学校とはその在り方が違うとは思いますが、「性教育」にしても「日の丸・君が代」にしても、東京での攻撃は「学習指導要領違反」が口実として掲げられたのです。その直接の狙いは、教職員の合議による学校運営の解体にありますが、究極の狙いは、「一人ひとりを尊重する」ことをめざす教育を、「個人よりも国家を大切にする態度を刷り込む」教育に転換することだと考えます。
式典冒頭に強制された「国旗掲揚国歌斉唱」の形式がこれを端的に表わしています。舞台壇上正面への「国旗掲揚」と、これに正対しての「国歌斉唱」の形は、諸外国ではまず見られません。この日本独自の形式は、1937年から日中戦争が本格化し、国民精神総動員運動が展開する中で、「御真影」への拝礼など当時の紀元節等の学校儀式を踏襲し、入学式や卒業式ばかりでなく学校外の様々な式典でも行われるようになりました。これは森川輝紀氏や籠谷次郎氏ら近代日本教育史の研究者が明らかにしてきたことです。
なお、私は今回の攻撃の発端に疑問があります。公開されている『報告書』にも昨年五月頃、外部からの通報があったとありますが、ネットで関連ニュースを読むかぎり、産経だけが昨年着任した校長からの指摘と一貫して書いています。産経がこの「外部」に触れたくないことは明らかです。同紙が、奈良教育大附属小学校の保護者説明会や記者会見に先んじて攻撃キャンペーンを開始したことも不可解です。「外部」とはどういう人達なのでしょうか?
いずれにしても、このサイトで、卒業生、保護者、また長年の教育実践に学んできた方々のご意見を読み、「みんなのねがいでつくる学校」を私も応援させていただきたいと思った次第です。長文失礼いたしました。