奈良美術教育の会の山室です。数年前まで奈教大付小で勤務していました。
このHPの「学校運営について」にアップされている、「6年生が1年生を見守る学校」(石本日和子さんのご寄稿/2.11登録)を拝読し、嬉しい気持ちでいっぱいです。深く感謝申し上げます。有難うございます。
昨秋(11.18)開かれた付小の研究会に参加し、わたしも石本さんと同じようなことを感じました。長くなって恐縮ですが…。
研究会テーマは『みんなで学ぶことの意味を考える-一人ひとりの学びの過程と授業づくり』で、基調提案、講演、21の授業(家庭科と道徳科を除く7教科と特別支援学級)、8つの分科会(同)がありました。
付小は、入学にあたり学力試験はおこなわず、発達検査と抽選で子どもたちが入学しています。
■はたらきかけながらよみひらくことの大事さをあらためて感じました。
2年の図工の授業では、しばしば自分の席を離れる子が数人いたのですが、その子たちはいつも黒板の前か先生の近くにいました。先生や学級の仲間の近くが居心地がいいんだろうなぁと感じました。また、ときどき先生がその子らに発問や指示(=はたらきかけ)をされるのですが、その度にそれに応えていました。「○○くん、紙コップを口にあてているしぐさを、みんなに横向きに見えるようにやってみて」と言われると、さっとコップをとって構えました。さらに、声の小さな子が指名されて先生がその子の方に歩み寄っていかれたときには、教室全体がゆるやかに静まりました。大きな目標は《みんなで》共有できているのです。
基調提案をされた先生は、ほとんど授業に参加しないNくん(1年生)の姿をよみひらこうとされるなかで、「なんで勉強しないの…?」と。するとNくんは、
「だってな、しょうがっこう、めっちゃたのしくて、とまらへんねん。べんきょうせなあかんことはわかってるけどな、たのしすぎてとまらへんねん」
と。柔らかく問いかけて(=はたらきかけて)、そのリアクションから子どもの真の思いや願いに近寄っておられるのです。
お二人とも、子どもの言動を頭ごなしに決めつけたり否定したりするのではなく、はたらきかけながら子どもの実意をよみひらく“ゆとり”をもっておられ、「学ぶことの意味」を問い合う理念の現れを感じました。
■上のことと関わって、分科会や全体会で参会者が「多様さが保たれる場では自分自身が排除されることが無いから他者を排除することもなく、自他を大切にする関係性・集団性が相互に生み出されていく」と仰いました。
クレスコ11月号(編集:全日本教職員組合)に『性の多様性を前提とした学校づくり』という寄稿がありますが、そのなかでも「男性女性が100人いれば、100通りの感じ方が」あるとされ、多様性は「自分も他者も大切にしてよいのだというメッセージにつながる」と述べてあります。
同じようなことをさまざまな立場の方が言われているのですね。《多様性》や《多様さ》は、人間らしくいまを生き合うための、基本的人権に関わる広く普遍的な課題だと再認識しました。
■《生活集団》⇔《学習集団》⇔《教科の本質》⇔《学習規律の本質》は、相互に作用し合う事柄なのだなぁと思いました。
基調提案のなかで、『きつねのおきゃくさま』の学び(2年・国語科)が深まる過程と学級の雰囲気が温かくなっていく過程とに相互作用が感じられました。「優れた文学、またその授業は、人と人が人としていまを生き合うことを励ますなぁ」と思いました。
すると、すかさず熊井将太氏(安田女子大学教授)が全体講演のなかで「生活集団と学習集団は車の両輪」と述べられ、「両輪」の高まり合いの中で一人ひとりの発達も保障されると説かれました。「みんなで学ぶ」ことを大きくとらえて事挙げしてくださったので、研究テーマ『みんなで学ぶことの意味を考える』の眼目が学習形態にあるのではないことがいっそう明確になりました。
これらを受けての全体討議では、《学習規律》をどう考えるかという問題が提起されました。「授業のはじめとおわりに起立・礼がなく、授業中に自席を離れて立ち歩いたり廊下に出たりしても、どの先生も平気。止めようとされない。それでも学習規律は一定程度保たれていて、とても好感が持てる。いったい、、、」と。
「みんなで学ぶ」ことの意味は外形的なことではないと確かめ合ったうえで《学習規律》について問うのですから、《「みんなで学ぶ」ことの本質》に照らして《学習規律の本質》にアプローチしなければなりません。
全体討議で奈良県算数・数学の会の先生が、「30回以上参加している。この学校が大事にしておられる《教科の本質の追究》に魅力を感じて…」と発言されましたが、わたしは、《学習規律》と《教科の本質》はつながっていると思います。
先月の奈良美術教育の会の学習会で、参加者が、
「どの子も表現したいという願いをもっているし、表現できたことを喜ぶ感性ももっている。」
「仲間といっしょに生活し学習しているからこそ、自分なりの意欲や参加方法を見出せる。」
と仰いました。
美術におけるもっとも大事な力(=教科の本質)が人間らしい感性力(自分なりに対象やテーマとじっくり向き合うスキル的なことも含めて)であるのは論を俟たないことですが、わたしの狭い経験からは、美術の授業における感性の創造は子どもと子ども、子どもと指導者の関係性に左右され、ここでも両者は「車の両輪」だと思います。
では、どうしてそうしたメカニズムがはたらくのでしょうか?
ヒトは文化を創造し、獲得・継承し、さらに創造していくことをとおして人間らしさや集団性を高めてきました。このため、学校での文化の体系的学習(=教科の本質に基づく授業)は、人と人がつながりながら人に成り合っていく契機を含みます。
だから「生活集団と学習集団は車の両輪」となるし、むしろ「両輪」でなければ意味がないし、その営みにありのままの《多様さ》が組み込まれないと、ルールやきまりの背後にあるねらいに惑わされて創造性が弱まってしまいます。
《学習規律》は、文化の体系的学習を契機とする人間らしい発達のための子ども同士の相互作用を最大限生み出す骨組みであり、《教科の本質》(=文化の体系的学習)なくして本質的な《学習規律》もない、と思います。
■「車の両輪」のメカニズムを教育研究とサークル活動にあてはめると、「サークルの民主性と教育研究の質は、車の両輪として相互に作用し合う」と言えるのではないでしょうか。サークル活動でも《学習規律》もきちんとしないとダメですね。
サークルでの優れた《学習規律》の例として、先日こんなことがありました。
10月の奈良美術教育の会の学習会の後、ある先生が、「私には図工美術の専門性がなく、苦手意識もあります。学習会で皆さんの話を聞きながら、自分の中で大事にしたいキーワードがたくさん出てきました。独りでは気づかないことがたくさんあるので、毎回発見とパワーをもらっています」と。
独りでは気づけないキーワードや「自分の中で大事にしたいこと」がたくさん見つかり、「毎回発見とパワーをもらって」こそサークルですね。こうしたことを生み出す《規律》こそ求められるべきだと思います。
【詳しくはこのHPでも紹介されている『みんなのねがいでつくる学校』(著・奈教大付小/解説・川地亜弥子/出版・クリエイツかもがわ)をぜひお読みください。】