私立の通信制・単位制高校の校長をしています。私の認識を書いておきます。教育課程とは「学校がすすめる教科及び教科外の教育活動の全体計画」(植田健男名古屋大学名誉教授)とされています。「学校の教育活動の全体計画」としての「教育課程」ということを考えた時、その「教育課程」とは誰のためのものなのか…?子どもたちだけのものではなく教職員のためのものでもあると考えています。学校の1日、1年間、3年間を過ごす中で子どもたちも私たち教職員もどちらもが共に育ち合える学校でありたいと願い、学校のどんな時間もつくろうとしてきました。
全体計画がつくられると、その計画に基づき実践がおこなわれます。実践の対象は子どもたちであり私たち教職員でもあります。その相互の関係性の中でその実践がどうであったのかを検証しなければなりません。教科活動においては、教材選び、授業の進め方などが子どもたちの意欲や興味、関心を引き出すものになっていたのか、子どもたちは授業を通して他者(子どもにも教職員にも)と出会い人間的なつながりを持つことができたのか、また、私たち教職員が子どもたちから学べるような実践になっていたのかなどを、子どもたちの様子や表情、発言、書いたものなどを基に教職員で振り返りながら検証をおこないます。教科外活動についても基本的には同じです。子どもたちの様子や声や書いたものをできるだけたくさんの教職員で読み取ろうとすることが教職員の学びになりそれがまた子どもたちへと還されていく…実践と検証を丁寧に繰り返せば繰り返すほど、立てた全体計画を変更したり、修正しなければならなくなってきます。それが自然なことだと思うのです。逆にはじめに立てた全体計画通りに進めていくということを第一に考えておこなわれる教育活動などは子どもも教職員もどちらもが成長の主体とはならないものであると言えます。
教育課程とはいつもどんな時も実践と検証を含んで成立しており、常に発展していくべきものであるのだと思っています。教育課程が常に発展していくということは、子どもたちの学びも私たち教職員の学びもが青天井に広がっていくということです。教育課程とはそういう天井のない広がりと可能性を持つものとして位置づけられなければ、人間のゆたかな成長を保障することはできないのではないかと思うのです。
奈教大附小のこれまでの実践と検証とはまさしくそういうものであったと感じています。教科活動にしても教科外活動にしても、いつも目の前の子どもの実態を丁寧にきめ細かく読み取ろうとしていますし、できなさやつまづき、悩みやあきらめ、できた喜びやつかんだコツや気づきなどもすべて拾い集め、検証をして次の活動へつなげていて、そこにはいつも教員同士の学び合いがあって、まさしく天井のない広がりのある「教育課程づくり」を実践している学校だと思っています。公開研究会にも参加しましたし、「みんなのねがいでつくる学校」もバイブルのように読ませてもらっています。いろんな研究会や勉強会で出会う先生達が語る子どもの姿や教育に対する理想の話にいつも励まされてきましたし、校種や設置者は違えど公教育を担う者、学校として共に育ち合っていきたいと思ってきました。
奈教大附小の教育課程づくりが、今後、目の前の子どもたちの実態や事実に依拠するのではなく、できあいの「学習指導要領」や変更されることのない計画にしか依拠せずつくられることにならないよう強く強く願っています。