教育における民主主義を問うとき、その民主主義の担い手は誰でしょう。
子どもを教育する親や教師など、おとなたちがまずは教育の民主主義の担い手でなければならないでしょう。そして同時に、おとなたちがよいと考えることが、はたして本当に子どもにとってよいのかどうか、子どもたちの声が反映されて判断する必要があります。
今回の奈良教育大学による付属小の教育への調査と今後の対応方針には、「不適切」とされた教育が、本当に子どもにとって「不適切」であったかは問われないまま、つまり子どもたちの声を聴こうとしていませんでした。そして「不適切」な教育だったという大学の見解は、子どもたちが学んだことや楽しかったと感じていたことを否定し、子どもたちを傷つける結果になっているのではないかと思われます。
「こども基本法」(2023年4月施行)は、「こどもの権利条約」にもとづいて「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」(第3条第3号)という理念を示しています。
今回の調査のような手法で子どもたちの聞き取りがおこなわれたらと思うとぞっとしますので、こどもへの聞き取り調査が必要だったと言いたい訳ではありません。これまでの付属小の実践の中に、子どもたちがどのように何を学んできたかを示す作品や記録がたくさんあります。そこから多くの子どもたちの声が聞こえてくるはずです。どのような教育がおこなわれていたかを調査するのであれば、子どもたちの声(表現物)にもとづいた教育の事実こそが重要な調査対象になるはずです。教科書の使用の有無や時間数など極めて無機質で形式的なことだけを取り扱っている調査報告からは、子どもたちにとってどんな教育がよい(「適切」だ)と考えているのか、調査者の子ども観や教育観が見えてきません。
私が付属小の教育が「適切」だと思った例をあげます。それは多数決が引き起こす問題について子どもたちがわかっていく過程を大切にしていることです。
時間がないからさっさと多数決で決めて、多数決で決まったことには文句は言わない―国会でそのようなことをしたら強行採決と批判されます。しかし余裕がないとき学校では往々にしてそうした強行採決がおこなわれます。そして民主主義とは多数決だと子どもに誤解させてしまいます。それに対して、よりよい指導は多数決をとるにしてもいろいろな意見を出し合って、それらを聞いてから多数決をすることです。しかし、そうした手続きを教師の指導にしたがって取らせてしまうのでは、子どもたちに多数決が持っている問題について実感させることができないこと、子どもたち自身が経験することの大切さを奈良教育大付属小の教育は教えてくれます。
以下、「多数決から見えたこと」(奈良教育大学付属小学校『みんなのねがいでつくる学校』クリエイツかもがわ、2021年、92ページ)を紹介します。
たてわりグループの名前を決めようと、6年生が呼びかけ、各クラスから案をもちより、6年生がいくつかにしぼって投票で決めるのですが、3年生のクラスでは20個もの名前があがりました。そこから1つにしぼらなければならないのですが、子どもたちが「多数決で!」と言います。
担任は多数決をするのなら、それぞれが賛成意見や反対意見を出し合ってからだというのですが、子どもたちはすぐに多数決をしたがります。そこで子どもたちの言うとおり多数決をします。その結果「あじさいグループ」がえらばれるのですが、納得いかない子どもたちが不満を言ったり、決まったことに文句を言われて腹が立ったり、クラスの雰囲気が悪くなってしまいました。そこで賛成意見と反対意見を出しあって話し合うことにしました。それぞれの意見を聞きあって「なるほど」と思えるようになった子どもたちは、もう一度多数決をおこないます。結局「あじさいグループ」に決まるのですが、あじさいを選ばなかったこともたちも結果に納得することができました。
すぐに多数決をしてしまうとどうなるかを教員が説明して、意見を述べあってから多数決をした方が効率的かもしれません。しかし意見を聞きあわずにいきなり多数決をしてクラスの雰囲気が悪くなってしまったことを経験したからこそ、子どもたちは異なる意見を聞きあうことの必要性を実感してわかっていくのです。この後、5年生でも多数決でもめた例が記されますが、奈良教育大付属小の教育は、自分と違う意見を聞いて、理解し、納得しながら折り合えるところをみつけていく話し合いこそが民主主義なのだと子どもたちに教えています。
子どもたちが学んだ民主主義と真逆のことが大学の調査でおこなわれて、子どもたち、保護者、教師から自信と信頼を奪い、混乱させていることが残念でなりません。