学習指導要領への厳格な準拠を強制すること,および,そこからの「逸脱」について,実際の教育の質を問わずに形式的な授業時数等で強迫的に非難することは,当の学習指導要領の趣旨からして矛盾をはらんでおり,さらに,附属小だけでなく,すべての学校にとって有害であると判断されます。以下,具体的に理由を述べます。
1.文部科学省自身が現行学習指導要領で推奨している「カリキュラム・マネジメント」と矛盾する
「カリキュラム・マネジメント」は,現行学習指導要領で初めて出てきたものではなく,1998/99(H10/11)年版学習指導要領の際に,当時新設された「総合的な学習の時間」や,中学校で拡大された「選択教科」といった,各学校で教育内容を創り出す領域での「カリキュラム開発」を促進するために一度提唱されています。
しかしこのときは,「ゆとり教育」批判をうけて文科省自身が「学力重視」にシフトしたために,「カリキュラム・マネジメント」は「学校評価」の中に埋没してしまい,「カリキュラム開発」は開花しませんでした。
今回の学習指導要領であらためて「カリキュラム・マネジメント」が強調され,その要素として「教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと」が含められた背景には,上記のような事態への反省があったはずです。
にもかかわらず,現在一部報道や文科省の対応にみられるような,学習指導要領の各指導項目の(学年配当を含めた)機械的な網羅,それ自体根拠が怪しげな各指導項目への「時数配当」を強要する姿勢は,各学校での「カリキュラム開発」を委縮させ,1998/99年版の轍を踏むことに帰結することは必定です。
2.学習指導要領や関連の装置自体の不備
今回やり玉に挙がっている「道徳科」については,学習指導要領-教科書検定―教科書といった一連の「装置」の不備がはなはだしく,それらへの厳格な準拠は,むしろ教育の質を低下させかねません。
①内容項目自体の問題
たとえば,小学校・中学校を通じ全学年段階に,[家族愛,家庭生活の充実]という内容項目があります。しかし,児童虐待,ヤングケアラーが社会問題化している現代において,「家庭生活の充実」を「家族愛」で根拠づけるということ自体,多分に問題をはらんでいます。とくにヤングケアラーについては,子どもを「介護力」として位置づけて福祉からのサービスを切り下げることへの批判も高まっていますが,こうした状況にある子どもが声をあげづらい原因の1つとして「家族愛」という「社会通念」があるのではないでしょうか。それ以外にも,道徳科の「内容項目」には,現在の社会状況との関連で見直すべき点が少なからずあります。
②教科書検定および教科書の質
道徳科教科書の検定の「重要な」観点として,「内容項目の説明文の要素を網羅しているか」があります。たとえば小学校3・4年生「[感謝]家族など生活を支えてくれている人々や現在の生活を築いてくれた高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接すること」であれば,教材文の「感謝」の対象に「家族」,「高齢者」が漏れなく含まれているかがチェックされます。
こうした機械的・形式的な検定の結果として,教科書教材は,内容項目の絵解きじみた,作成者の魂胆=授業で何を言わせたいかが見え透いた,したがって子どもたちにとっては面白くもなんともないものになってしまいます。
かつての「道徳の時間」であれば,「教科書」は存在しなかったので,教師たちは複数の教材会社の「副読本」からよりましな教材を選ぶこともできましたが,「教科書」になってそうした選択肢は(学習指導要領等を機械的に遵守するなら)ほぼなくなってしまいました。
このように,とくに道徳科にあっては,学習指導要領や関連の装置は,その強制を正当化できる根拠はきわめて乏しいといわざるを得ません。
そもそも附属小学校は実験校。公立小学校とは根本的に違うはず。それを公立小学校の論理を持ち込むこと自体が乱暴な話。
授業を見学した方からは、「子どもの今と発達に向き合い、6年間を見据えた教育が行われている」「子どもたちが本当に大切にされている」と聞いています。公立小学校との人事交流して、何が得られるのでしょうか。処分の必要などありません。
また、附属小なのに、特別支援学級があることも素敵です。独自の教育課程で実験校としての役割を充分果たしていると思っています。
教育の本質を分からない人が、穿った報道をすることに腹立たしさを感じ得ません。