大阪市の公立中学校教員です。昨年、「教育、学校に希望などないのでは」と苦しんでいたときに附属小学校の公開授業を参観しました。そこには心と体が解放され、「その子自身」として今ここに存在し、全身で先生や仲間の声を聴く子どもたちの姿がそこにありました。教室で物語をみんなで読む意義の本質がありました。子どもを心から信頼し、全存在をかけて、一人ひとりの声を聴く先生がいました。子どもは安心できる環境で安心して自分をさらけだし、否定されない経験をすると、学びに向けてひとりでに走り出します。評価や進路に脅されて萎縮した子どもたちは学びから逃走します。附属小は日本の教育の最後の希望です。その教育の灯を守り続けてきた先生方を処分することは、教育の放棄です。私が今日、教室の扉をくぐることができたのは附属小の先生方の存在があったからです。教育者の良心があるならば、今からでも処分撤回してください。子どもを泣かせる教育者は「先生」ではありません。
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奈良教育大附属小を守る会 ーみんなのねがいでつくる学校応援団ー
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活きた教育とはこのようなものをいうのでしょう。それは子どももおとなも解放する。抑圧と管理、詰込みと評価によって、たとえ学習進度が上がっても、英語が堪能になっても、それは教育ではなく「調教」と言わねばならない。
奈良教育大学附属小学校でこのような事態が続くならば、同校のホームページに掲載されている標語「みんなのねがいでつくる学校」は、ただちにに引き下ろされなければならない。